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ベンガル人

- ベンガル語を母語とする人々-

 

ベンガル人はバングラデシュとインド西ベンガル州のみではなく、他の北東インド諸州やビルマ・アラカン州(主にロヒンギャ)などベンガル湾周辺の広大な地域に暮らしている。 ベンガル民族は様々な人種(ドラビタ、インド=アーリア系やモンゴロイドなど)が長い歴史の中で混血されて形成された集団であり、特定の人種的(血脈)な傾向はなく、あえて言えば人種的な特徴のないことが特徴といえる。肌の色は遺伝や生活環境の違いによって個人差が大きい。また、顔立ちも欧米風から日本人風の顔をした人まで様々であるが、しかし、一見してモンゴロイド系(ここでは学術的な厳密さを離れて東アジア、東南アジア的な風貌の意味)の人々とは明らかに異なる。

ベンガル人は地域的、文化的には一定の共通の基盤はあるものの、ヒンズー教徒とイスラム教など宗教によっても社会的・文化的な背景は大きく異なり意識の上でも特にイスラム教徒にあっては民族よりも宗教へのアイデンティティが強く出る。従って、バングラデシュのベンガル人について言えば、民族としてのアイデンティティーは第1にベンガル語を母語としている、という点であり、次にそれぞれの宗教コミュニティに分裂している。

ベンガル語を母語とする人口は1996年のデータで世界人口の3.2%に当たる1億8900万人であり、中国語(北京語)、英語、スペイン語に次いで第4位を占めている。英語とスペイン語は様々な国で母語として定着しており、アメリカ合衆国のように必ずしも言語=民族という関係ではない。従って、ベンガル人は一つの民族集団としては中国の漢民族について大きな集団と言える。

ベンガル人の人口は、次の図の通りに推移している。

左の図は1800年から1981年までのベンガル人口動態である(弘文堂『もっと知りたいバングラデシュ』65ページ)。

<ベンガル人の人口増加問題>

左の図のようにベンガル人の人口は1800年の2000万人から1981年の1億5千万人へと急激に増加している。

但し、バングラデシュではイスラム国としては例外的に人口抑止政策が功を奏し、女性一人あたりが生涯に産む子供の人数が1975年の6.3人から1999年の2.9人へと大幅に減少している。。

一方、インドでは大集団としてベンガル人が暮らしている地域は西ベンガル州にとどまらない。トリプラ州、アッサム州などの北東インド全域に及んでおり、特にトリプラ州はヒンズー教徒のベンガル人が人口の8割以上に及び、その比率は現在も上昇している。。北東インドの非ベンガル人はベンガル人の人口圧力、すなわち自然増加に加えて合法非合法を問わず外部から流入しやがて政治・経済の実権までも奪い先住民族を森の奥深くへと押し出していくような圧力に大変な危機感を抱いている。

バングラデシュと北東インドにおける民族問題はこのベンガル人の人口増加と生活領域拡張の流れを押さえておかなければ理解しにくいだろう。

また、それらの地域は日本とは違って指定部族の保留地など主としてマイノリティの保護の観点から国民の居住権は一定程度制限されてきた。つまり、日本では国内であれば人は誰でも好きなところに移り住む権利がある。しかし、インド・バングラデシュではそれぞれが本来独立した国(いわゆる藩王国)または地域であって、北東諸州は州法などによって異るが、バングラデシュにおいても特に丘陵地帯などは法的に外部の人間の居住が規制されている地域なのである。

しかしながら、独立後からそうした地域に不法に、あるいは政府の奨励によってマジョリティであるベンガル人が入植し、マイノリティの権利を侵害する状況が続いており、それに伴って政府はそうした地域の「軍事化」を積極的に進めてきた。これは、国家による侵略行為として非難されるべきである。

<ベンガル語>

ベンガル語はインド・アーリア語族インド語派に属する言語で、古代インド語であるサンスクリット語から発生しベンガル地方で発達した言語である。標準語というものは存在しないが、カルカッタが歴史的に学問、文化、行政の中心であったことからカルカッタで話されるベンガル語が標準であるという一定のコンセンサスは存在する。但し、バングラデシュでは当然のことにダッカ地方のベンガル語が標準語としての一定の役割を担っている。

ダッカ方言とチッタゴン方言では発音やイントネーション、多少の単語が異なるが、それはコミュニケーションに支障を来すほどの違いではない。チッタゴン丘陵地帯の人々でもダッカやカルカッタで言葉か通じないために特に困ったということは余り聞かない。

ベンガル語をコンピューターで打つときはソフトによって打ち方がまちまちである。なお、Unicode専用のテキストライターがフリーで配布されており、そこにはベンガル語も含まれている。知る限りでバングラデシュでもっとも普及しているはテキストプロセッサーはBijoyであるが、少なくとも16種のソフトが出回っている。http://www.altruists.org/projects/ek/comparison/ 

 

"LIFE IS NOT OURS"ベンガル語版表紙

<バングラデシュのベンガル人>

バングラデシュのベンガル人は大きく分けると3つの集団に分類される。

・ イスラム教徒(Bengali Muslim)
・ ヒンズー教徒
・ 仏教徒バルワ
他にキリスト教徒もいるが、それぞれの宗教出身であり民族に準じる集団とは言えない。

バングラデシュがイスラム教を国教とする国家であるためだろうか、日本ではバングラデシュ人のアイデンティティを「ベンガル人であるということとイスラム教徒であること」と断定する説明も見られるが、故意かどうかは別にしても、あたかも単一民族国家のような幻想を未だに持っていることと宗教的な多様性も無視していることから、これは悪質な誤りであると言える。

バングラデシュはイギリスからの独立に当たって大ベンガル主義よりもイスラムでの統合を優先したが、パキスタンからの解放後、バングラデシュ憲法ではそれぞれの宗教の尊厳を尊重することが明白に規定されている。その条項はエルシャド大統領時代にイスラム教を国教とする憲法改正が行われた後も存続している。また、パキスタン時代の苦い経験からも国民の圧倒的多数は政治や法制度がイスラム教に傾くことを敬遠している。従って、バングラデシュは多民族、他宗教の国民国家であるというコンセンサスの上に成り立っている。

なお、ビルマ・アラカン州のロヒンギャは無国籍、あるいはバングラデシュ国籍など未だにミャンマーの市民権を得るに至っていない。ロヒンギャはもとよりベンガル人イスラム教集団であるが一つの民族としてのアイデンティティを持っており独立した民族である。

 

イスラム教徒

バングラデシュのイスラム人口は現在、9割に達しようとしている。これは、改宗によるものではなく、主にヒンズー教徒を駆逐した結果としてイスラム人口が増加しているのである。それがいかに過酷な迫害の結果であるかは、ヒンズー教徒の人口比の表を見れば容易に想像がつくだろう。

現在のバングラデシュにイスラム教が伝播したのは11世紀に入ってからであると言われる。古くからの港町であるチッタゴン港を抱えるチッタゴン地方では既に9世紀頃からイスラム商人が交易に訪れていたこともあり、もっとも早期にイスラム教が入り取り入れられた。そのためか、現在でもチッタゴン地方は保守的なイスラム信仰が根強く、例えばダッカでは女性が頭部を完全に隠すブルカは滅多に見かけることはないがチッタゴン市ではむしろ一般的である。また、女性が市場で買い物をする姿もダッカではごく普通であるが、チッタゴン市では珍しい。

バングラデシュのイスラム教では、ヒンズー文化と混淆したスーヒィズム(神秘主義的イスラム教)の伝統が広く見られ、イギリス植民地時代には農民運動と密接な関係でイスラム本来の姿に帰ろうとするワッハーブ運動が活発化した。現在、チッタゴン周辺などの東部ではワッハービーが多く、西部ではスーヒィズム的な伝統が根強い(もっと知りたいバングラデシュ)。

バングラデシュのイスラム教のもう一つの特徴としてよく言われていることは強烈なエゴイズムである。バングラデシュのイスラム社会では安心した隣人関係を築くことは難しく、自然的な要因もあって人々は喰うか喰われるかの極めて緊張した関係の中で生きている。バングラデシュでは現在、NGOによって組織されるショミティ(コミュニティ)活動が各地で盛んであるが、裏返せばこれは同国の伝統的なイスラム社会ではコミュニティがなかったからだ、とも指摘されている。

ヒンズー教徒

ヒンズー教徒は表にあるとおり年々減少している。これは、イスラム教その他の宗教への改宗や自然の現象によるものではなく、人権侵害の結果である。そのためヒンズー教徒にとってバングラデシュは"Killing Field"と表現すら使われる。

ヒンズー教徒の割合
1941年
29.7%
1947年
23.0%
1961年
19.0%
1974年
14.0%
1981年
13.4%
1991年
10.5%
2002年
9.0%
 左の表はバングラデシュの総人口にしめるヒンズー教徒の割合である。1941年と61年との間で10%以上減少しているが、英領インドがインドとバングラデシュに分裂したときに人口の大移動が起こった。その後も、インドでイスラム教徒への襲撃事件が発生するたびにバングラデシュ側ではヒンズー教徒を対象とした大規模な人権侵害事件が発生し、その度にヒンズー教徒は土地を捨ててインドに逃れていった。結果から見ると殆どの場合マイノリティへの襲撃、人権侵害は土地や財産の強奪を意図して扇動されたものだと言える。

 インド側の統計では1971年の独立戦争以前にインドに渡ったヒンズー教徒人口は520万人に上った。そして、独立戦争時では900万人、つまりヒンズー教徒の殆どがインドに避難したと言われる。これは、パキスタン軍に加えて親パキスタンの義勇兵やコラボレーターと呼ばれるビハーリー、ジャマート・イ・イスラミなどのイスラム政治団体などが、独立運動活動家はもとより知識人やヒンズー教徒を標的として殺戮を繰り返したためである。なお、バングラデシュ独立戦争の犠牲者は100万-300万人で、その8割がヒンズー教徒であったという。

敵性財産法・既得財産法 パキスタン政府によって公布された敵性財産法Enemy Property Act、そしてバングラデシュ独立後に公布された既得財産法Vested Property Actによって「没収された土地は65万2000エーカー(1兆5000億タカ相当)にのぼる。没収された時期をみると、1965〜71年に75.4%が没収されており、1972〜75年7.3%、1976〜81年8.9%、1982〜90年4.7%、1991〜97年3.7%となっている」。しかし、ヒンズー教・仏教・キリスト教徒統一評議会は不当に没収された土地は100万エーカーを下らないとしてその返還を求めている。

詳しくは The sorrowful tale of how the 12 million Hindus of Bangladesh are officially classed as enemies: The Vested Property Act
http://www.hinduhumanrights.org/Bangladesh/vestedinterest.htm

近年の人権侵害 2001年10月に実施された総選挙の結果、ヒンズー教徒や先住民族などマイノリティを支持基盤の一つとしていた政権政党アワミ連盟が大幅に議席を減らし、代わってバングラデシュ民族主義党(BNP)、国民党、ジャマヤート・イ・イスラミ(イスラム協会)、イスラム統一戦線の4党連合が勝利しカレダ・ジアが首相に返り咲いた。この選挙戦が始まってからヒンズー教徒をはじめとするマイノリティに対して再び大規模な攻撃がBNPとイスラム原理主義政党などによって行われ、選挙後はさらに彼らへの人権侵害がエスカレートした。91年から2002年までの間にヒンズー教徒200万人前後がインドに亡命しているが総選挙前後だけで数十万人もの人々が住処を追われてインドに逃げた。現在、カルカッタに逃れている人々だけで3万人と推計され、その多くは比較的富裕な層であり、殆どの人々はメガラヤ州、トリプラ州、西ベンガル州の農村部などに避難しているものと思われる。

 

バルア

ベンガル人仏教徒でバルア姓を名乗るものはチッタゴン地方を中心にコックスバザール地方にかけて約15万人がくらしているといわれる。彼らは一応、チッタゴン方言のベンガル語を母語とし、外見的にもベンガル人と区別がつきにくいので、ベンガル人であると見られているが、はっきりとは断定できない。

バルアの仏教はマルマ、チャクマ同様にテラバタ(上座部、あるいは小乗)である。その仏教のあり方は他の仏教を信奉する民族集団(チャクマ、マルマ、ラカイン)と殆ど変わらず、僧侶の戒律は厳格ではない。

カルカッタで1891年に出版されたH.R. Risely著「ベンガルの部族とカースト」ではバルアの出自について次のように書いてある。

「(略)バルア・モグを除き、すべてのモグはアラカンからの移民である。バルアは血脈と宗教で様々に異なる集団、すなわちヒンズー教徒、イスラム教徒、アラカン人、ビルマ人、ポルトガル人などの混血であると一般に信じられている。複数の学者たちが、アラカン人の男性と低カースト出身のベンガル人の女性の婚姻を起源として形成された集団であると書いている。しかしながらバルアはそのような見解を完全に否定し、自分たちはかつてビハール州の支配民族であった王族の血を受け継ぐ末裔であると主張している。この問題は未だに解明されていない」

また、次のような説明もある。

「伝承によれば、彼らの祖先は、もとマガダ国(釈尊時代、16大国の一つであり、インドを最初に統一した大国)の「マガ」という名の種族に属する王であり、この王朝は、一時的にアラカン地方をも支配していたとされる」(神ひとし、http://www.evam.com/evam2/socie/ronbun/local/ea/bangla1.html

ただし、この伝承の「マガ」=Magh(マグ)はマルマ族、ラカイン族すなわちアラカン人であるとも伝えられており、何れにしても真偽のほどは分からない。

<その他のベンガル人マイノリティ>

キリスト教徒 バングラデシュにおいてキリスト教への改宗は教育の機会を得ることであり欧米へ渡るチャンスを得ることにつながる。それはベンガル人においても例外ではない。イスラム教からの改宗は高いリスクを伴うものの他のイスラム教国のように死刑となることはない。

うした人々とは別に、最下層の清掃人のコミュニティからも大量の改宗者が出ている。パーリアは不可触民のコミュニティで依然としてヒンズー教徒が多数を占めるが、キリスト教に改宗した人々は独自の教会を持ち、現在も各のコミュニティにとどまっている。なお、指定カーストの人口については1961年のセンサスまで統計に掲載されているが、以降は特に集計されていない。詳しく知りたい人はA Asaduzzaman著『The 'Pariah' People  An Ethnography of the Urban Sweepers in Bangladesh』(The University Press Limited, ISBN 985 05 1534 9)をお読みいただきたい。